断然兄貴、絶対兄貴!

第3話 夏乃の逆襲

「何で俺まで手伝わなきゃなんないんだよ」
 段ボールが所狭しと置かれ、取りあえずの場所に家具が配置された明るい南向きのリビング。
 その一画で、立派な造りの木製書棚を間に挟み、ふてくされたような顔をして櫂人が透を睨み付けていた。どちらも書棚を更に上回る長身のため、こうして並ぶと立派なはずの書棚も小さく見える。
「身内の引っ越しを手伝うのは当たり前だろう。それとも何か」
 下は作業着代わりのジーンズ、上はタンクトップに半袖シャツを羽織っただけという滅多に見られないラフな格好の透がその端整な面を一度キッチンの方へ向けたかと思うと、如何にも呆れたような目付きで傍らの櫂人を一瞥する。
「お前はもう六十の坂を越した高子さんに、家具の移動まで手伝わせるつもりなのか」
 真新しいキッチンでは、長年早渡家の家事を取り仕切ってきた家政婦の高子がその丸い身体を揺らしながら水樹や夏乃を相手に透と櫂人の好物料理を伝授していた。実年齢の割にはハツラツとしているが、さすがに最近では頭部に白い物が目立つようになってきている。
 そんな高子から透へと視線を戻し、櫂人は不機嫌面をますます顰める。
「誰もそんなこと言ってねえだろ。大体、男手なら俺じゃなくたって青葉の兄貴だっているだろが。いくら自分がトチ狂ってる相手だからって、あからさまに贔屓してんじゃねえよ」
「ほう」
 一段低くなった透の声に櫂人はびくりと一瞬身を竦ませる。別段何をされるという訳でもないが、子供の頃からこの兄の出す低い声は苦手だ。
「明らかに自分よりも体格も腕力も劣る相手に、身の丈以上の重い物を持たせようと言うんだな」
 腕を組み、見下げ果てたやつだとでも言いた気に透は櫂人を見据える。
「では聞くが、お前のその恵まれた立派な体格は何のためにあるんだ。孔雀の尾羽根同様、手当たり次第に女性を誘惑するためか? お前はそれで人として恥じるところがないと言うんだな?」
 透から僅かに目を逸らし、櫂人は小さく舌打ちした。
 腐っても元司法修習生。
 こうやって人の痛いところを容赦なく突いてくる。
 検事になるつもりも弁護士として活動するつもりもないくせに弁論やディベートの技術だけは衰えないから始末が悪い。
「もう、わかったよ。うっせえな。やればいいんだろ、やれば」
 辟易して顔を顰めると櫂人は渋々書棚に手を掛ける。

 朝晩と段々に秋の気配が濃くなってきた九月下旬の土曜日。
 この日の引っ越しは主に透の所有物を実家から運び込むためのものだったが、水樹と夏乃の部屋にも引っ越し業者の手によって真新しいベッドや机等が運び込まれていた。
 透と櫂人の主な仕事は配置替えだ。各部屋の主の指示に従い細かい調整をする。
 何故養子縁組に反対している自分が手伝わされるのか納得のいかない櫂人は始終不機嫌面だったが、それでも結局透には逆らえず、気が付けば個室での作業は全部終わっていた。
 最後に残ったのはリビングから続く八畳の和室。畳を傷つけないよう慎重に桐の箪笥を運び込み、部屋の隅に配置たところで夏乃と水樹が揃って顔を出した。
「あ、ここは和室なんだ。何か新しい畳の匂いがする……」
 物珍しそうに襖の端から覗き込む夏乃に透が声を掛ける。
「もう仕込みは終わったのかね?」
「うん。あとは煮込むだけだから、もう手伝いはいいよって高子さんが」
 そろりと座敷に足を踏み入れた夏乃は配置されたばかりの箪笥に目を留める。
「あれ。和箪笥なんてあるんだ。あんまり桐生さんのイメージじゃないけど……」
「昔弓道をやっていてね」
 透は部屋の隅に置いてあった厚紙製の大きな収納ボックスを引き寄せた。中から畳紙(たとう)を取り出して広げる。
「あ! 袴だ。カッコイイ!」
 夏乃が広げられた畳紙の前に座り込んで透を見上げる。
「ね、桐生さん。弓道ってどのくらいやってたの? 大会とかに出た?」
「部に所属していたのは玄武坂に通っていた六年間。成績は大したことはなかったよ。都大会で五位が最高だったかな」
「こちらは着物ですね」
 収納ボックスを覗き込んだ水樹が畳紙をひとつひとつ丁寧に出していく。
 畳に並べられた畳紙は結構な数に上った。弓道用の胴衣の外に紋付袴、単衣(ひとえ)、袷(あわせ)と、長襦袢と帯を合わせ一通り揃っている。
「一体こんなもんいつ作ったんだよ。ウチじゃ着たことねえじゃん」
 八畳間に所狭しと並べられた畳紙に櫂人が呆れていると、透が澄まして答える。
「まあ、三十になったんだ。和に親しむのは日本人としての嗜みの一つだろう」
「けっ。気取ってんじゃねえよ」
 櫂人の悪態には取り合わず、透は先程から熱心に着物を覗き込んでいる夏乃に声を掛けた。
「夏乃君にも、成人式には知り合いの店に頼んで大振袖を見繕ってあげよう。扇でも御所車でもモダンな花柄でも好きなものを選ぶといい」
「え、で、でも、振袖って高いし……」
 びっくりしたように顔を上げ戸惑う様子の夏乃に透は鷹揚に笑ってみせる。
「まさか、いらないなどとは言わないだろうね。学費以外は私の裁量でという約束だと思ったが」
「良かったじゃないか、夏乃。せっかくだから、素直にお言葉に甘えさせてもらうといいよ」
 穏やかに水樹が促すと夏乃は安心したように頷いて、改めて嬉しそうに透の顔を見る。
「はい。ありがとうございます!」
「つーか、青葉の場合七五三の着物で十分なんじゃねえの」
 横から櫂人がからかうと、
「失礼な!」
 むっと眉根を寄せた夏乃は何故か水樹の腕を取って縋るようにぴたりとその身を寄せた。
「着ても早渡には見せてやんないからいいよ。桐生さんと兄さんだけに見せるから」
 櫂人は顔を顰めた。
 何でそこで自分の兄貴に頼るのかさっぱりわからない。
「ガキみたいに兄貴にひっついてんじゃねえよ」
「大きなお世話!」
 櫂人が何か言う度に夏乃はますます水樹にぎゅっとひっついて睨み返してくる。
 学校で気まずくなって以来、櫂人は夏乃とほとんど話もしていなかった。
 こうしてこれ見よがしに夏乃が水樹とベタベタしてみせるのも、先日の無神経な自分の発言への面当てなのかもしれないと、ふと思い当たる。
「ほら、夏乃。仕舞うのに邪魔になるから」
 口ではそんなふうに言いながら、水樹の方でも妹の手を振り払おうとはしない。穏やかに微笑んでいるだけだ。
 どうも、良くわからない。
 透を手伝って畳紙を桐箪笥に収めていく水樹をぼんやりと眺めて櫂人は考える。
 嫌なヤツではない。学校で言い伝えられている通り人柄は善良そうだ。若いのに苦労をしてきたという境遇にも共感は出来る。単純に同級生の兄として、或いは「伝説の男」その人として出会っていれば、素直に感動し尊敬の対象にすらなっていたかもしれない。
 だが、それでもやはり養子縁組は認める気にはなれないし、現実問題として今この場で水樹にどう接していいのかも櫂人にはわからなかった。
「あの、櫂人君」
 あまりにも無遠慮に眺めていたせいか、視線に気づいた水樹が少し困ったように声を掛けてくる。
「僕に何か……?」
「別に。何でもねえよ」
 ふいと水樹から視線を逸らし、櫂人が和室からリビングへ出たところで高子の声が掛かった。
「さあさあ。透さんも櫂人さんも力仕事お疲れ様。皆さんもお昼にしましょう」

 水樹と夏乃に手伝ってもらいながら、高子がダイニングのテーブルに真新しいクロスを掛け、いそいそと食器を並べていく。
 櫂人はむっつりと黙って一番端の席に着き、それらの様子を眺めていた。
 根が寛容な性格の高子は今回の養子縁組に関してもまったく気にしていないようで、主婦仲間とでも話すように楽しげに水樹と話をしている。水樹の方でも年配の女性と話すことにまったく苦手意識はないようだった。
「まあ、ねえ。水樹さんは男の人にしては包丁を持つ手付きもよくって驚きましたよ」
 心なしかいつもより華やいだ様子の高子が料理の腕前を誉めると水樹は手際よく配膳を手伝いながら柔和に微笑む。
「家事はずっと夏乃と分担してきましたから」
「あたしがまだ子供の頃からだから、実は兄さんあたしよりも主夫歴長いよね」
「そうなんですか。まあまあ、道理で」
 夏乃の説明を聞いて高子はにこにこと透を振り返る。
「よかったですねえ。透さんは直に好物のハヤシライスを食べられるようになりますよ」
「期待しているよ」
 透が微笑みかけると水樹も素直な笑顔で頷く。
「はい。頑張ってみます」
 一見何の問題もない、絵に描いたような家族団欒の風景だ。
 その中心にいる二人が男同士だということを除きさえすれば。
 本人達はともかく、夏乃や高子が何故平気でいられるのか櫂人には不思議でならなかった。しかし、それ以上に自分がこの場に疎外感を感じているのが腹立たしい。
 黙々とハヤシライスを掻き込むと櫂人は席を立った。
「帰る」
「まあ、待て」
 テーブルから離れようとする櫂人を呼び止めると透はリビングのソファからブリーフケースを持ってきた。
「水樹君。これを渡しておこう」
 中から一枚の用紙を取り出して水樹の方へと差し出す。
「証人の署名捺印はもらっておいた。あとは君のサインだけだ」
 それは養子縁組届だった。
「へえ。これが届出用紙なんだ」
 夏乃がまた水樹の腕を取り、物珍しそうに兄と一緒にそれを覗き込む。
 櫂人は露骨に顔を顰めると透を睨付けた。
「何だよ。わざわざ人を待たせといて、当て付けかよ」
「櫂人」
 立ったままおもむろに自分の方へと向き直った透に何となく気圧されて、櫂人は僅かに後ろへ身を引く。
「何だよ」
「水樹君はお前の同意がないと署名はしないと言ってるんだが」
 透がテーブルの向こう側に目をやると、視線を受けた水樹は櫂人に目を移して少し困ったように微笑んだ。夏乃も水樹にくっついたままじっと櫂人を見ている。
 その夏乃の非難めいた視線から櫂人は目を逸らした。
「知らねえよ。俺は認めねえって言ったろ」
 もう一度透を睨み付けると、テーブルを回り込んで夏乃の手から届出用紙を取り上げる。すると、やっと夏乃が水樹の腕から離れた。
「ちょっと! 返しなさいよ!」
 手を伸ばして奪い返そうとする夏乃の遥か頭上をひらひらと通して素早く折畳み、届出用紙をジーンズのポケットに突っ込むと、櫂人はそのままダイニングを出る。
「こいつは俺が預かっとく」
「なっ?! 何言ってんの! 返しなさいよ! 待ちなさいってば、バカ!」
 玄関に向かう櫂人とそれを追っていく夏乃の背中を見やって、透はやれやれと首を振った。
「困ったものだ。すまないな、水樹君」

 ◆

 櫂人は部屋を出ると真っ直ぐエレベーターホールへと向かった。
 さっきまで背中で五月蝿かった夏乃の声も、もう聞こえない。諦めたのだろう。
 透の態度、夏乃の態度。ついでに水樹の人の良さ。
 何もかもに腹が立つ。

 タイミングよくやってきたエレベーターに滑り込み、閉ボタンを押す。

 別に水樹本人に恨みはないが、自分から同意なぞしてやるものか。
 どうせ最終的には第三者の意向など無視されるとしても、こっちにも意地がある。

 櫂人は腰のポケットから届出用紙を取り出した。
 広げてみると既に透の署名捺印と証人の欄に谷口信也、小川浩子という名がある。
 櫂人の知らない名だ。透の知り合いなのだろうが、こんなものの証人になろうとするヤツらの気が知れない。
 見ているうちにまた腹が立ち、届出用紙を破り捨てようとした時だった。
「あ、それ養子縁組届ですね!」
 極間近でやけに甲高い、愛嬌たっぷりの声がした。ぎょっとして声のした方を見ると、脇からテレビカメラと、マイクを持った嬉しそうな男の顔が櫂人の手元を覗き込んでいる。
 考え事をしていてエントランスを出たのに気が付かなかったのだ。
 しまったと思ったがもう遅かった。
 櫂人が行動を起こすより早く各メディアの記者が一斉に取り囲みマイクやレコーダーを向けてくる。
 とっさに言い訳を考えようとしたが、桐生の新居があるマンションから出てきた上に、手にはやはり桐生の本名で署名捺印された養子縁組届というこの状況では生半可な言い訳は通用しそうにない。
 桐生の実弟と証明するためいつも印篭代わりにしている生徒手帳も、今日は私服のため持っていなかった。
 報道陣に取り巻かれ、早渡櫂人は生涯最大のピンチに立たされたのだった。

 

「あーあ。何やってんだか」
 遥か高みから豆粒のような地上のコントを眺めていた夏乃は、南のバルコニーからリビングへ戻ると、手提げを持って廊下に出た。
「どこ行くんだ、夏乃?」
 段ボール箱を開けて本の整理をしていた水樹が見咎めると、
「ちょっと人助け。あたしこのまま買い物して帰るから、後は二人でごゆっくり」
 にこやかに手を振って玄関の方へと姿を消す。
「え、ごゆっくりって。夏乃?!」
「……まったく」
 書棚に本を並べていた透が手を休めて溜め息を吐き、やれやれと緩く頭を振る。
「夏乃君にはあんなにユーモアのセンスがあるというのに、ウチの愚弟の頭の固さときたら、同じ受験生だった頃の私より酷い。そうは思いませんか、高子さん」
 水を向けられた高子は食事の後片付けをしながら丸い身体を揺すって気持ちよさそうに笑った。
「まあまあ。本当に透さんは大人になったこと」
「私はもう三十ですよ、高子さん」
 透が苦笑すると高子はおかしそうにする。
「あら、そうでした。私も歳を取ること。心配いりません。そのうち櫂人さんにもちゃんとおわかりになりますよ」
「僕もそう思います。きちんと順序立てて話をすればわかってもらえますよ」
 高子の意見に頷く水樹を透はちらりと一瞥する。
「だが、際限なく待つという訳にもいかない。受験も控えているしね。一応期限を切らせてもらおうか」
「期限……ですか?」
 目を見開く水樹に透は頷いた。
「年内ということでどうかな。正月には君達を両親に紹介したいからね。役所が年末年始の休みに入る前、仕事納めの日には櫂人が何と言おうと養子縁組届は出す。異論は?」
「わかりました。それまでに説得してみます」
 神妙な顔付きで頷く水樹を見て透はくすりと笑った。
「まったく君は頑固だな。櫂人のことは無視してサインする気はないのかね?」
「桐生さんこそ」
 水樹が少しだけ困ったように眉根を寄せる。
「桐生さんが本当のことを話してあげたら今すぐにでも解決する問題だと思いますけど」
「誰しも譲れない一線はあるものだよ」
 その澄まし顔を見て水樹が小さく諦めの溜め息を吐くと、透は思い出したように水樹の方を振り向いた。
「ああ、それから。その桐生という呼び方はやめるように」
「え?」
 まるで人知を超えた想定外のことでも言われたように水樹の目が丸く見開かれる。
「君は私の息子になるのだから芸名で呼ぶのはおかしいだろう」
「え、じゃあ、何て呼べば……。お父さん……ですか?」
「いや、さすがにそれは青葉先生の手前僭越に過ぎる。私のことは透と名前で呼ぶように。私も以後君のことは水樹と呼び捨てにさせてもらう」
「え、ということは、と、透さん……ですか。すごく呼びにくいんですけど……」
 困惑気味の水樹を見て透が高子を振り返る。
「そんなに呼びにくいかな、私の名は?」
 高子は洗い物をしながら、ただおかしそうに笑うばかりだ。
「まあ、呼んでいればそのうち慣れるだろう。試しに一度呼んでごらん」
「え? い、今ですか?」
 戸惑う様子の水樹を透は面白そうに見る。
「今でなかったら、私はいつまで待てばいいのかな」
「は、はい。そうですね。……ええと。と、透さん……?」
 散々躊躇った末に何故か疑問符付きで呼び掛ける水樹を見て透は失笑した。
「そんなに緊張しないと呼べないのか。これは当分愉しめそうだ」
 水樹は小さく溜め息を吐く。
「お願いですから、僕で遊ばないでください」

 ◆

「櫂人君、お待たせ!」
 思い掛けない声に櫂人が振り返ると、取材の人垣の向こうに夏乃が立っていた。
 見たこともない満面の笑みで、可愛らしく手まで振っている。
「あ、青葉……?!」
 振り向いた櫂人の視線を追うように取材陣が一斉に夏乃に注目する。
 戸惑ったのも一瞬。すぐに相手の意図を察知した櫂人は地獄に仏とばかりに夏乃に歩み寄って肩に手を回した。
「いつまで待たせんだよ」
 親密さを装って抱き寄せると、夏乃も櫂人の背中に手を回して見上げてくる。
「ごめーん」
「んじゃ、すいません。俺、これから彼女とデートだから」
 テレビカメラに向かって愛想よく会釈をすると、櫂人は夏乃をしっかりとホールドしてそそくさとその場を離れた。敷地の外をしばらく歩いて連中が追いかけてこないことを確かめると、やっと歩調を緩める。
「ったく、何やってんの」
 背中に回していた手をあっさりと離し、呆れたように見上げてくる夏乃を櫂人は改めてまじまじと見る。
「……お前って案外度胸あるな」
「早渡が要領悪すぎなんだよ。あんなの構ってないでさっさと行けばいいのに。ちょっと」
 自分の肩に回されたままの手にちらりと目をやってから夏乃は櫂人を睨付けた。
「いつまで触ってんの?」
「何だよ。その気があるから助けてくれたんじゃないのかよ」
「単なる仏心。言うなれば、カンダタに慈悲を垂れるお釈迦様の気分って感じ?」
 さっさと先に行こうとする夏乃を、肩に回した手でがっしり掴んで櫂人が引き止める。
「待った。だったらついでに青葉がこの先もしばらく彼女役続けてくれると助かるんだけど。俺成績落ちた分勉強しないとさすがにヤバイから、これから先ナンパなんか一々してらんねえし」
「勝手に自分の都合いいようにばっか考えてんじゃないの」
 呆れた様子でぴしゃりと肩の手を払いのけようとする夏乃の左手を、櫂人は空いていた左手で捕らえた。そのまま手を繋ごうとすると夏乃が抵抗する。
「ちょ、放してよ」
「何でだよ。いいだろ、別に。手を繋ぐぐらい」
 その態度を晩稲らしい夏乃の初々しい躊躇いぐらいに思って櫂人がいささか強引に手を握った瞬間、ビクリと微かに夏乃が身を竦めた。
 櫂人は思わず自分が握ったその手を見る。
 櫂人の掌の中の小さな指先は思いも寄らないことにがさがさと荒れていた。
 びっくりした様子の櫂人を見て夏乃は素早く手を引っ込める。櫂人が少しだけ気まずそうに肩に回していた手を離すと、その顔を見上げて笑った。
「驚いただろ」
 両手を隠すように後ろに回すと夏乃は駅へと向かう歩みを速めた。
 櫂人と距離を置くつもりだったのだが、少しぐらい速度を速めてみても、そもそも脚の長さがまったく違う櫂人を引き離すことは出来なかった。
 櫂人の方としても、このまま何のフォローもせずに夏乃をほったらかしにしておくつもりはない。それではこの間の二の舞いだ。
「……それって、やっぱ炊事とかでなるのか?」
 ぴたりと隣をキープしながらしばらく歩いて尋ねると、夏乃は観念したのか段々に歩調を緩めた。
「毎日やってるからね。これでもまだこの季節はマシなんだ。真冬になるともっとあかぎれとか霜焼けとかも出来るし」
 早くから家事は兄と分担だったため夏乃の手荒れは小学校の頃からだ。運動会のフォークダンス等で男子と手を繋ぐことがあの頃の夏乃は嫌でたまらなかった。
「霜焼けって……。湯沸かし器ぐらいあんだろ」
 怪訝そうに櫂人が尋ねる。
「あるけど使わない」
「何でだよ」
「ガス代掛かるし、それにお湯だと余計に手が荒れる」
「だったら手袋すればいいだろ」
 櫂人の提案に夏乃は顔を顰める。
「やりにくいんだよ。微妙な感覚わかんないし。それにどうせ作ってるときは手袋なんてまどろっこしくて、してらんないよ」
 夏乃の言い分を聞くと櫂人は軽く天を仰いで溜め息を漏らした。
 まだ高校生のくせに高子のようなことを言う。
 自分で炊事をしたことなどない櫂人は反論も出来なかった。朝食はパン食だし、昼食はコンビニ弁当。夕食は高子が作ってくれる。休日等の高子がいない間の片付けも、自分達でするのはせいぜい酷い汚れをざっと水で洗い流すことぐらいで、あとは食器洗い機にお任せの状態だ。
 それでも高子は機械のやることは雑だと言って、翌日やってきてから自分で洗い直すのが常だった。
 夏乃の言い様はそんな高子を彷彿とさせるのだ。
 しばらく特に話もせずに並んで歩き、最寄りの駅の構内に入ると夏乃が櫂人を見上げてきた。
「これから真っ直ぐ家に帰るの? 何か予定ある?」
「いや。別にないけど」
「じゃ、ちょっと付き合ってよ」
「付き合うって、どこへだよ」
 デートでもする気になったのかと少し自惚れた櫂人だったが、にんまり笑って夏乃が口にしたのは、まったくもって期待外れの、色気のない単語だった。
「買い出し」

 

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Fumi Ugui 2008.05.30
再アップ 2014.05.21

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